決定版 感じない男

「決定版 感じない男」 森岡正博 ちくま文庫 2013年

 今回は、新書「感じない男」という本の文庫化・増補として出版された「決定版 感じない男」を取り上げたいと思います。

 この本は、すでに私が新書版の評を書いた際にも指摘した通り、著者自身が主張する通りに従来の「客観的な」セクシャリティ論では扱われなかったような角度から、男性のフェチや性的志向の問題に切り込んでいます。その際に参照基準となるのは常に著者自身の実感である点で、過去に積み上げられてきたこうしたジャンルの著作とは一線を画しているといってよいと思います。
 その最大の特徴は、著者が、ロリコン男や萌えオタクは、少女に、男性からの性的対象として、いわばオヤジ目線的な意味で欲情しているというよりも、実は、自らの「『汚い』男の体」を嫌悪・忌避しているが為に、その少女を、いわば自らが社会的関係性の上でアバターとして身体的に着込みたくて、つまり社会的には少女として振る舞いたいがゆえに、少女に執着しているのではないかと指摘している点です。

 とりわけ私にとって興味深かった内容は、私が公の場である中学の教室で性器を笑いものにされるというイジメ経験のトラウマによって、人格が自壊してしまうのを防止するための殆ど無自覚な戦略として、自分の身体上に「少女」を実装してしまう、という適応を行ってしまった、という、その問題点の具体的な指摘になっていた部分です。  既に私は、如何にして自分の身体上に「少女」を実装してしまったか、といういきさつについては、ざっと述べてきました。かいつまんで振り返ると、中学時代にイジメに伴って一種の強姦的な被害を被ったために、これが男性性の「去勢」となってメンタルが女性化してしまい、それに引きずられて外見や振る舞いを、その心性に合致させて自覚的には少女になってしまった、というのが、おおよその成り行きでした。
 ゆえに、例えば私の(イラストなどの)表現上に出現する「視姦される少女」とは、要するに自分のセルフイメージなのです。表現上に自分を展示しているわけです。

 著者は、自分が痴漢に遭った際の経験を引いて、自身が「狙われる体」であることを「耐え難いことであった」と述べています。私の場合も、電車で二度ほど痴漢に遭いましたが、その際には、嫌悪感よりは、自分のメンタル的な快感を満たされる感覚が先に立ってしまい、これらの件では、自身のメンタルが女性化してしまっていることを再確認させられました。

 さて、この少女化した「偽装身体」を実装するに当たっては、もちろん内部の「小動物」は、偽装を開始した高校入学の時点ではあまりにも小さすぎたため、、外皮の「偽装身体」との間には大きな空隙が出来てしまっていたわけですが、可能な限りこの「小動物」を育成することで「偽装身体」内の空隙を埋め合わせ、最終的には「偽装身体」を撤去して、外装を育成した「小動物」そのもので置換する、というような将来展望を考えていたわけです。「小動物」がそもそも「少女」のミニチュアになっているために、こうした展開が妥当だと構想したということです。

 ちなみに、私の言う「ロボット」は、「おじさん」を、偽装身体の雛型にしていると思われます。ただし、「ロボット」の戦略上の欠点は、内部の「動物」を育成しても、最終的に外装の撤去が困難だということです。「おじさん」と「ミニチュア少女」は形状が異なるために、単純に置換できないのです。
 そして、私が「おじさん」より「少女」の方が、自分の偽装身体として、よりふさわしいと感じている理由は、内面的なイメージに対する親和性が「少女」の方が高いからです。「おじさん」は違和感が大きすぎて実装できないのですね。これはやはり、「強姦被害」によって、自分の男性としての自信を破壊されているのが原因と思われます。

 ともかく、「居方」の佇まいのまとまりをよくして「人間然としたオタク」を目指すなら、「身体偽装戦略」は有効だ、という事は言えると思います。その際、「性的被害」のようなタイプのイジメといったトラウマを抱えている場合は、「偽装身体」としては、「おじさん」よりも「少女」のほうが馴染むはずだ、というのが、私が自分の経験から導いた意見です。
 そして、「偽装身体」として何を使うか決めかねたり、そもそも「身体偽装」に価値を見出さないと、キャラが荒廃して、「ハゲデブ」系統のオタクになってしまうものと思われます。その場合には、こういった「キャラ(というかキャラの不在)」に落ち着いてしまった相手に対しては、周囲はどう対応していいか扱いかねてしまう、という問題が生じると思います。オタクに関連してしばしば取り沙汰されるコミュニケーション能力の欠如の問題は、こうした枠組みから理解することもできると思います。まぁ、最初から孤立を決め込んでそもそもコミュニケーションに関心がない人の場合は、身体偽装というような問題には興味が無いかもしれませんが…。

 そんなわけで、、私は、この本の著者が「不可能な願望」として述べている「少女の体に乗り移る」という行為を、少なくとも自覚のレベルでは現に実行してしまったのです。特に私の場合、、自分の顔の造作と、トルソー部分の形状は、自分で自分の体に欲情するには十分なシロモノでした。スネ毛が濃いというのは男性的特徴の残滓として残りましたが、全体のバランスからすると、この点は、私にとっては、それほど大きな痂疲とはなりませんでした。いざとなれば剃ってしまえばいいんだし、と暗黙に考えていたからですね。
 そうやって「少女の体を内側から生き」「自分で自分の体を真に愛し」た結果、生じた事態は、オナニーが「不感症」ではなくなってしまった、という結果でした。よって、著者の言う「射精後の敗北感」という感覚が、共感的には理解できません。ただ、快感の残響が徐々に薄れてゆく過程が、まどろんでいるようで気持ちがいいだけです。

 このように、概念的な意味で「少女に乗り移って」自己完結してしまっているために、少なくとも自分の内的必然としては、「身体」に関する不満というものは、オナニーといった性欲処理の問題まで含めて、特に抱えてはいません。問題が発生したのは、ナルシズムを含めたこのような完結の仕方が、男性という定義の上では完全に異常であるために、この完結している系全体を隠蔽しなくては、という強迫観念が生じたことによります。ただ、今回のブログを書くにあたって、こうした私に組み込まれている系全体を暴露してしまったため、「身体」に関しては、自覚としては、何も問題点を感じなくなりました。

 著者はまた、「男の不感症」を抑圧していると、反動作用で「権力」を追求してしまうので、「不感症」を自覚することで「やさしさ」を獲得できるはずだ、という論旨も、巻末付近で展開しています。私の場合にも、「やさしさ」を追求する一方で、「権力的なもの」にたいする執着傾向も同時に存在しており、こういう人格構造の矛盾は内包していますが、私の場合は、この問題点は、「不感症」との直接の接点は無いように感じています。  結論から言うと、私の場合は、この分裂が生じている理由は、自尊感情がうまく機能していないためです。もちろん、この事態もまた、直接的にはイジメが原因で引き起こされたものですがら、セクシャリティの逸脱の件と、問題としては同根なのですが、私は「身体」や「性」の問題は「自分の体」で回収してしまったために、自尊感情の不全・劣等感といったものだけが、単独で残存してしまったのです。

 この問題を辛うじて埋め合わせていたのは、小学校卒業時に、親が私を受験上の理由から強制的に他地区の中学に入学させようとして引っ越した際に、同じクラブ(まんがクラブ)に所属していた友人が私が居なくなると知って泣き出した、という経験でした。この経験が、私でも、一度は他人に心底好かれたことがある、という自信を繋ぎとめる根拠として大きな働きをしていました。

 さて、本書が持つセクシャリティに関しての新奇な視点として最大の特徴は、ミニスカートに対するフェテシズム的執着の問題について、そのメカニズムを、著者が自分の嗜癖を根拠に解剖していっている点でしょう。この論点には、実に共感的に納得出来るものがありました。すなわち、スカートに関しては、男は、スカートや下着自体というよりは、その中身を「隠そうとする意思」そのものに惹かれている、という結論が述べられています。

 すなわち、既に述べた通り、「ロリコンやフィギュア萌えオタクは、自分が『汚い』『男の体』を抜け出して、少女の体に乗り移りたいのだ」という論旨が展開されていますが、そういう彼らは、女性に関しては、その当の女性にはスカートの中身を「隠す意思」があるのに、実際には下着が露見してしまうという、意図と現実の矛盾事態そのものに惹かれているのだ、という結論が述べられています。すなわち、隠したいのに見えてしまうという、その意図・意志を貫徹できない弱さが、ここでは恥として規定されている、ということが言えそうです。
 こと私の場合は、自分が「少女」それ自体でもあるので、このスカートの恥への拘りとは、自らの過去の屈辱的な体験を、いわば形を変えて自覚的に表明し直している、というような事も言えそうです。

 この論点について、もう少し突っ込んで考察してみると、「汚い」体をしたハゲデブ的な萌えオタクは、そういう、本来は綺麗であるがゆえにその身体を誇り得る女性が、スカートという制度のせいで、自らの体の美を、単に誇ってはいられずに恥を感じねばならないと規定したがっているのではないでしょうか。それゆえに、スカートの女性を、その中身が見えることを恥と定めることで辱めつつ、同時にその身体の美を羨望しているのではないかと思われます。或いはこの事態は、その女性への羨望を内面的に正当化する為に、当の憧れの対象を貶めなくては釣り合いが取れないという事を意味しているのかも知れません。

 すなわち、歴史的な成立の経緯は兎も角としても、現在の社会では、スカートという衣装は、美と恥とを結び付ける為の制度・装置なのではないでしょうか。無論、人間の肉体美はそもそも、他者の視線を浴びて見られることを意識する事によって生じるものだという論点はあるでしょう。すなわち、見られるという、視線を浴びるという現象を、晒し者になることによる恥、としてではなく、美しいものへの賞賛として浴びる心性が美を作り出すといえそうです。
 ここでスカートというものは、その視線を浴びる感覚を、賞賛による快楽というよりは、むしろ蔑視や憐みからくる恥じらいへと方向づけて舵取りさせてしまう衣装と言えるのではないでしょうか。つまりスカートという衣装の持つ社会的意味合いの一つは、その容姿の美によって突出した権力性を持ちかねない美しい女性に、その過剰な誇りを損なう分だけの恥を制度的に人為的に付与して釣り合いをとる、という作用機構でしょう。
 さて、ではそうやって、本来は美しいがゆえにその身体を誇りと感じ得る女性を、スカートによって、身体的な自由で活発な動きや、他者からの見られ方(仰ぎ見られてはならない)、低い位置に居るべきという在るべき立ち位置などの制約・束縛を課する事で、他者の視線が気になって自由に振る舞う事の出来ない、恥ずかしい存在へと貶めて扱う事の社会的意義とは何でしょうか。

 昨今、ビックカメラ各店では、多数派のズボンの店員に混じって少数のスカートの女性店員が働いているようですが、これはいわば、「この売り場では、『一人だけスカートの【姫】プレーヤー』を配したサッカーチーム」という実装を、実験的にではあれ実際に行ってみました、という意味に解釈できます。
そこで、こういう「スカート姫」を職場やチームに一人だけ配置するという行為にはどういう意義があるのか、改めて考えてみましょう。

 もちろん、第一には、それが単純に、偽装されたポルノとして機能する、という側面があります。既にこの文脈で盛んに「ドリス」ということを言い立てましたが、時代を遡って「元祖」に当たるというなら、言うまでも無いことですが、およそある世代の男子なら、「南原ちずる」に性的に興奮した記憶があるのは当然の幼時体験でしょう。さらに、私は生物学的に女子ではないから想像で言うのですが、こうして、チームの他のメンバーから、そのスカートという性的なコスチュームゆえに常に視姦されている「ちずる」は、女子がそのキャラクターに自己投影して性的に興奮する材料としても利用可能ではないでしょうか。

 しかし、ここには、実はもう一つ、大きな機能が存在していると思います。すなわち、女性メンバーの内の一人だけにスカートを穿かせて、身体的な束縛を与えて彼女の能力を制限すると、全体としては、そのチームの生産性が向上するのです。
なぜそうなるのか。スカートを穿かされて、その身体的な能力の一部を禁止されてしまった「姫」は、当然ながら、その無能性・劣位性によって、他の成員から蔑視を受けます。(と同時に、それを補償するために憐憫も浴びせられ、チヤホヤされるワケですが。そういう意味では、中高生女生徒のルックスに関する「スカート補正」というのは当然の話で、要するにスカートを穿かされれば身体的に無力になるから、劣った者として憐憫の対象足り得るワケで、可憐であるという意味合いに於いて可愛いに決まっています。)
 ここで重要な点は、本来、成員相互間の優劣が希薄な比較的フラットな空間に、一人だけ差別されている、というような構造を人為的に作り出す、という、このコンセプトです。この操作によって、「スカート姫」以外のメンバー(男女いずれも)の中に、「姫」に対しての優越感を作り出すことが出来るのです。プライドを刺激された人間は、当然ながら、ただ漫然と仕事を行っているときに比べて、能力が向上します。
 ただし、当然ながら、他の成員のプライドを刺激するという目的でスカートを穿かされてしまった「姫」には、屈辱が与えられることになります。このままの状態で長期間そのチームを固定して運用した場合、最終的には、「姫」が屈辱に耐えられず、彼女の精神に重大な悪影響がもたらされる可能性があります。「姫」がこのデメリットを回避する構造的な戦略は、幾つか考えられるでしょう。

 第一は、「戦力的参与」。これは、そのチーム・職場などが、事務作業などのデスクワークだったり、先ほど挙げた店舗のような軽作業だったりする場合に可能になる解決法です。つまり、「姫」はスカートを穿かされて他のメンバーによって視姦され蔑視される(同時にまた同情されて憐れまれ、チヤホヤと構われる)存在ではあるものの、そのことによる職業能力の低下が比較的軽微であるような場合です。デスクワークであれば、スカートであっても殆ど仕事上のハンデにはならないし、例えばビックカメラの店舗のような場合も、ちょっと考えてみると、あれで出来ないのは、天井の棚から梯子に登って商品を下ろす作業だけでしょう。つまり、能力制限があまり無いか、部分的なものに留まっているような場合です。
 こういう場合には、「姫」といえども、その携わっている本来の実務上で有能性を示す道が閉ざされているとは言えません。後者のような、「現に梯子には登れない」というような場合であっても、床面から離れさえしなければ、残存している職業能力の範囲内で有能性を誇示する道までもが閉ざされてはいませんから、「スカートのくせに頑張っているな」というような、部分的評価は最低限、獲得できる余地があり、この意味で、完全に追い詰められてしまうという構造にはなっていません。
 ただ、この梯子の問題で象徴的なのは、スカートの者は、床から離れて高い所に登れば裾の中を覗かれてしまうがゆえに、物理的に人の上に立つ事が出来ないという事実です。これは一種、比喩的な意味でも象徴的です。すなわち、スカートの女は、物理的に無力であるがゆえにリーダーたり得ず、また人より低い位置に立つべき存在である、というような、一種、女性差別的な含意が、見方によっては読み取れる、という事です。

 だから、なお極端な場合として、例えば、それこそ既にカリカチュアとして示されていたような、「サッカーチーム内でプレーヤーに一人だけスカートを穿かせてみた」というような事態だったらどうでしょうか。こうして身体的に弱体化させられたプレーヤーが相手チームのトランクスを穿いたプレーヤーとボールを奪い合って交錯してみたとしましょう。只でさえこのような服装だったなら、充分に脚の自由が利きませんから、競り負けてボールを奪われてしまいかねません。更には、もし擦れ違いざまに相手にチョットでも裾を捲られてしまいでもしたら、まぁ蹲ってしまうまではいかなくとも、竦み上がって場合によっては裾を押さえてしまうだろうし、心理的動揺から、ボールは簡単に奪われてしまうでしょう。そういう意味では、この場合には、このプレーヤーの能力は極端に低下していて、ゼロに近くなっている場合もあり得ます。
 あるいは、以前、Webで見かけた事例ですが、工場で、立体的な機械装置の間を梯子で上り下りしなければならないのにスカートだった出来ないとか、建設工事の現場で、施工を請け負った本社から派遣された現場監督の女性がスカート姿だったら、というようなコトを考えると、この場合、こうした女性がこの現場で出来ることは、完全に、下に留まって口先で指示するという範囲だけになってしまい、肉体的には完全に無能力です。この場合にも、男性や、同じ女性であっても、ズボンやパンツを穿いた人と比べれば、能力の低下の程度は極めて大きいといえるでしょう。

 こうした場合には、この種の「姫」が与えられる屈辱は大きなものとなり、しかも、この「姫」が、「姫」というポジションでこの職域に参加し続けている間は、こうした屈辱は、常に加えられつづけるコトになります。この屈辱は、業務を通じては解消できません。
 では、「姫」はどうやって精神的な破綻を回避できるのでしょうか? それは、「姫」というロールに縛られる場というのが、職場だけである、という認識に対して自覚的になることで可能です。つまり、その職場の中では「スカート姫」という役回りを強要されているが、最終的には、その職場を離脱する権利は留保しているので、原理的に逃げ道なく追い詰められている訳ではない。そういう自覚を持てば、屈辱で精神的に破綻してしまうことは回避できます。別の角度では、毎日の勤務が終わって自宅に帰れば、そこでの「プライベートの」自分は、「スカート姫」ではないわけです。

 しかし、こうした「オフ」が存在しない種類の職場の在り方、というモノもありえます。これは、その職場が、メディアに接続されていて、「姫」の概念やビジュアルの情報が、常に不特定多数にオープンになっている場合です。典型的には、例えばアイドルという事です。ただし、こうした場合でも、その人物像のキャラクターとして「スカート」をアイデンティティの一部に組み込んで売り出す場合と、在る限定された番組や設定の下でのみ、限定的なフィクションとして、そういうイメージを仮構して押し出している場合では事情が異なるでしょう。後者は、要するに「RO-KYU-BU」の売り出し方というコトですが、あれは「もふ」嬢は、別に楽屋やプライベートでまで「スカート姫」を強要されているわけではないので、「退社後」「オフ」という概念は背後に存在し、この意味では、先の「工場」とか「建築現場」と大差ないわけです。
 問題なのは、プライベートに於いてまで「スカート姫」というようなキャラクター作りをして、世の中に対しての露出を行う、というような方法を取った場合です。この場合、「スカート姫」には、「オフ」という概念が無い。その為に、その「スカート」というポジションから必然的に受けることになる屈辱を開放する方法が無い。それゆえ、通常は、何らかの形で職場に「スカート姫」ポジションを設ける場合でも、こういう実装はしないものです。この実装を、私は以前「奴隷的アイドル」などと呼称しました。

 だたし、原理的には、こういう「実存全部スカート姫」というようなポジションを設置しても、その「姫」が潰れてしまわないようにする方法は、在ることには在る。それはどういう事かと言うと、より下位の「スカート姫」を別に設けて、上位の「スカート姫」が下位の「スカート姫」を侮辱的に観ていれば、上位の「スカート姫」の精神衛生は安泰である、という方法です。この場合、下位の「スカート姫」は、さらにもっと下位の「スカート姫」の存在によって芋蔓式に癒されるという、階層構造となります。

 この構造上で、最下位に存在して、全ての「スカート姫」の屈辱を受け止めるべく設置される存在が、東浩紀の「日本2.0」の中に登場する「聖母」です。この最下位の「スカート姫」である「聖母」は、際限なく屈辱を与えられるが、アウトプットの回路は無い。なぜこのような、一見破綻が自明であるような構造を可能なものとして設定し得たのかというと、「聖母」は無限に愛するからです。愛というのは、ある側面から捉えるなら、いくら攻撃されても平然としていて全く反撃しない、反撃する必要も無い、という在り方、居方のコトでしょう。イメージ的には、いくら強姦されても全て受け入れてしまう女性像、というような話になります。

 問題点は、どういう「処女」だと「聖母」になってしまうのか、というコトです。

 ここで、私は、二つの類型を持ち出します。第一の類型は「夜空姫」です。まず前提として、ここで言う「(精神的な意味での)処女」というモノは、「恥じらい」というモノを、(いささか過度に)真に受けている種類の女だ、ということが重要です。それゆえ、この種の「処女」は、スカートを捲られたり覗かれたりすると、(フリではなく)本気で恥らってしまい、精神的に動揺したり、行動不能に陥ったりします。(ちなみに、こうした「処女性」が低下してくると(まぁ、スレてくると)、恥らったとしてもそんなに深刻には受け止めなくなったり、むしろ恥らっている挙動を利用して男をコントロールしたりしようとするなど、恥を戦略的に運用し始めたりするわけです。)
 「夜空姫」の概念で重要な点は、この種の「処女」は、生き物としては「処女」としての存在様式に拘束されているにも関わらず、その「拘束」が、実は、社会的な関係性のシステム上の帰結でしかないことを既に認識している点です。つまり、なんで腰の周りのピラピラが体から浮くと行動不能にならねばならないのか、単に物理的に考えれば理解不能で理不尽な概念に過ぎない、という認識を持っています。にもかかわらず、メンタリティ的には「処女」の構造の外側の陣地を経験的に獲得していないため、理不尽だと思いながら、つい恥じ入ってしまう、という行動をしてしまう。この結果、確かに彼女が自身のスカートから受けている屈辱は、単なる「フリ」ではなく本物なのだが、同時に、それが、社会的制約を離れれば無意味なものである、とも判っているわけです。それゆえ、こうしたタイプの「処女」は、「処女」でありながら、理性で恥じらいを抑圧して強制的に行動することが、短時間・限定条件下では可能です(シリカちゃんの対触手戦闘)。

 もう一つの類型を「ふくしま姫」と呼ぶことにします。この類型は、要するに、世の男性が思い描く典型的な「処女」じみた「処女」と言えるでしょう。つまり、単に純情なだけの少女です。この類型は、頭が足りないので、「恥」概念が単なる社会的関係性の問題であることを想像できません。その結果、捲れるスカートに対して全身全霊で恥らってしまい何も出来なくなる、というような「かわいい」挙動を示す結果になります。

「夜空姫」類型の「処女」は、確かにスカートから実物の屈辱を受け取ってしまうと言う意味では処女に過ぎないのですが、一方でその感情を「概念的問題に過ぎない」として相対化しているため、一定時間であれば、そうした「恥じらい」を単に自分の身体的なリソースと見なして利用する、というような、「すれた女ごっこ」が限定的には可能だからです。こういう類型の「処女」は、理性的な把握によって、自分の動物的な「生き物性」が有限であることを認識しているから、始めから真の意味で「聖母」になることは有り得ません。

 実は「夜空姫」は他のメンバーとの差別的待遇が理由で恥じ入っているのであって、この点では、一人のときでも、ただ闇雲にスカートを抑えてしまう「ふくしま姫」とは様相が異なります。なぜなら、「ふくしま姫」が恥じ入るのは、誰かに見られているからというより、単に恥ずかしいからです。なぜ恥ずかしいのかというメカニズムを理解していないのです。

 さて、厄介なのは、こうした「ふくしま姫」を「聖母」に仕立てるためには、そのプロセスの途中で、厄介な問題が生じかねない、という点です。その点を詳しく述べるためには、「ふくしま姫」類型の内部を、さらに幾つかのタイプに分割して扱い、考察してみる必要があります。この分割は、「ふくしま姫」を「スカート姫」に仕立てて職場やチームに設置した場合、どういう挙動をするだろうか、という観点から分類して考えてみると判り易いと思います。

 まず重要なのは、「ふくしま姫」を「職場」の「スカート姫」に任用した場合、彼女は、恥を単に「恥」そのものとしてしか認識していないために、「オフ」「退社後」という概念に行き当たらない筈だ、というコトです。
それゆえ、「ふくしま姫」を「スカート姫」に据えた場合、彼女は、実際にその職場がどういう構造的な成り立ちの上に存在しているのかとは関わりなく、単に自分の置かれた状況を「アイドル」として認識してしまいます。この場合、彼女の認識の中では、「アイドル」とは全て「奴隷的アイドル」を意味するので、とりたてて「アイドル」に「奴隷的」というような留保を付けようなどとは考え付かないでしょう。

 ここで、「ふくしま姫」類型の「スカート姫」が、その職場で取りうる態度を総当り式に見ていきましょう。問題なのは、「ふくしま姫」が内部に抱え込んでいる抑圧と、そこから生じる攻撃性・上昇志向です。この攻撃性の総量が比較的低い場合には、「ふくしま姫」は、つつがなく「聖母(際限のない強姦を許容する公衆便所)」に移行し得ることになるでしょう。

 しかし、この攻撃性が一定以上だった場合には、困った問題が生じかねません。つまり、「スカート姫」としての職場での蔑視で受けた屈辱を、その職場の他のメンバーに対する攻撃によって晴らそうとする行動に出る危険性があります。この場合も、単に職場内で最下位である自分の順位を、一つ、乃至はせいぜいいくつか上げればそれで満足する場合と、職場の残りのメンバー全員を制圧して最上位に収まろうと企てる場合の二通りがあり得るでしょう。

 危険なのは、この後者の「出目」が出てしまった場合です。「夜空姫」類型であれば、攻撃的であったところで、その該当の「職場」を制圧してしまえば、それ以上の外部は攻撃対象に入りませんが(京乃まどか類型)、「ふくしま姫」にとっては、「職場」と「世界」はイコールですから、この場合には、「姫」は「世界全部」を攻撃対象であると認識して「恐怖の大魔王」と化してしまいます(「魔女」)。つまり最終的には、「姫」はファシズムを目指してしまう結果となります。そこで、この事態を防止するための仕掛けが必要になります。

 その為に鍵になるのが、スカート姫に対して、自分の行動が筒抜けになっていると示唆を与えはするが、具体的事実関係は絶対に隠匿し確証も与えない、という構造です。現実には示唆さえあれば「実装」は必要ありません。こうしておくことで、際限のない攻撃の欲求に取り付かれた「魔女化姫」の行動原理を予め骨抜きに出来ます。つまり、何をやってもどうせ先回りして読まれてるんだろう、という予断から最終的には絶対に自由になれないようにして、無限の攻撃欲求の貫徹を萎えさせてしまう、というような安全装置を設ける、というコトです。

 あとは、最後にもう一つ。こうした「スカート姫」設置行為によって、一人だけ女性メンバーに差別待遇を与えることで全体の生産性向上を図るという、この戦略論自体の是非についての私見も書いておきます。これは、投げやりな結論のようにも聞こえるでしょうが、一概には決められないでしょう。ある種のアイドルのように、明らかにそれが営業戦略上極めて有利に働く場合というのは確実に存在すると思います。

 なお、当然ですが、アイドルならなんでも単独のスカート姫の図式に依るべきだ、ナドとは言っていません。全員パンツだったり、逆に全員スカートだったりする展開も、勿論、あり得ます。また、「スカート姫」方式で押し出す場合には、その成員、特に、当の「スカート姫」の役回りを押し付けられるメンバーからは、事前にそうした差別待遇に関しての合意を取り付けておかなくてはならないのは勿論だし、楽屋やプライベートに「スカート姫」のロールを持ち込まないのも、原則的には当然の前提でしょう。
 ただ、ここにはちょっとした留保も考えられて、メンバー相互間の仕事上の人間関係を、実際に「スカート姫」に対するリアルな蔑視によって意図的に構築することで、上演時に実際に人間が並んだ時の、相互の力関係の空気感のリアリティを裏打ちすることで、「スカート姫」の弱弱しい儚げな可憐さに奥行き感を出す、といった戦略も、ありうる事はあり得ます。まぁ、ごちゃごちゃ言ったが、要は、当の「スカート姫」に、「他のメンバーが一人でも一緒に居るときは、必ずスカート姿で居ろ」と義務付ける、ということですね。まぁ要は、どういうレベルまで「スカート姫」ロールをその「スカート姫」に強要するにしても、合意を取り付けておくことは最低限必要な条件だ、というコトです。
 つまり、本人合意の上なら、こういう視覚的娼婦のような職能も「アリ」という見解を述べているワケです。現実に、この社会に存在するアイドルの少なからずは、こうした機能的な組み上がりの中で成り立っていると考えて差し支えないでしょうから、これはそんなに無理のある議論とは思われません。

 ただ、組織体の中への「スカート姫」ポジションの設置の意義については、これは、別に現実の「アイドル」の上演に限ったことではなく、一般の組織・集団で仕事をする職場でも、原則論は同じです。そして、その目的にも幅はあるでしょう。
 要するに、たとえば、一般的な会社のオフィスなどに於いて見られる、「対外的な来客には、お茶は(若い)女性が出さないと見栄えが悪い」というような「旧式の」概念もこの種の「スカート姫」設置の論拠の一つとして機能し得ます。もともとこの考え方は、「女性社員」を性的添え物として捉える考え方に裏打ちされており、(男性の)来客に対して、「この娘を性的に鑑賞して楽しんでください」というメタメッセージを添えて、応対する男性社員に随伴させている、という意味を帯びています。この価値観には勿論賛否両論があり得ますが、今の時点では、原理原則論として論理的に誤謬であるとするだけの論拠を、私は見出していません。
 無論、そういう方針を有する組織に参画したくない女性には、そこに参画しない自由があってしかるべきなのは当然なので、女性メンバーにそういうロールを要求する方針を持っている組織体は、募集時にその方針を公然と表示しなければならないでしょう。無論この場合、当の「スカート姫」の得る報酬は、「(表向きの)業務」だけに対するモノではなく、「性的鑑賞物として陳列されたことに対する対価」も含まれることになります。これは、給与明細上でも明示されることが望ましいでしょう。

 逆に、特に対外的な目的なしに、その組織で一番美形のメンバーに「スカート姫」ロールを割り振って、内輪の成員で鑑賞して楽しむ、という、それだけの意味合いで、こうしたポジションを内部に設置するという事もあり得ます。この場合は、この事態というのは、いわゆる「職場のアイドル気取り」というものをを単に理屈で裏打ちしただけのことで、当の「スカート姫」は、スカート姿で自由度を束縛され、性的鑑賞物となっている一種奴隷的な身の上に対する蔑視の視線と引き換えに与えらる、その蔑視の補償のための身体行動上の配慮(レディファーストとかそういうヤツね)や、心理的な意味でのチヤホヤしたご機嫌取りやオダテなどの周囲からの「優待」を、一方では享楽的に楽しんでもいるわけですから、ある意味では、こういう「スカート姫」と残りのメンバーはギブアンドテイクであり、一種の相互了解が成り立った上での構造です。これは一見、単なる隠匿されて背景化した差別のようですが、その結果、当の「スカート姫」がアイドル気分を楽しみ、残りのメンバーが審美的・性的(・女性なら嗜虐的)快感/満足感を得て組織体全体の生産性が上がる、というメリットが得られる場合もあり得うる以上、一概にこういう体制を否定は出来ません。
 無論、この「スカート姫」が、そういう意図に賛同していない場合は、組織体内部の相互了解とは言えません。また、この場合には、多くはこの種の「スカート姫」が在籍する職場はホワイトカラーであると思われるので、「スカート姫」が無能力化する事態は、日常の業務上からは逸脱したイレギュラーな緊急時や、何らかの物理暴力を伴う抗争時などに限られる事になるので、日常的な業務上では対等であり、取り立てて「スカート姫」の被差別的な身体に配慮する必要はありません。だた、日常的な行動の範疇でも、例えばそうですね、仕事外で宴会でお座敷などに座ったとき、片手でタイトミニスカートの股間を押さえているために上手く飲み物が注げない「スカート姫」のコップに、飲み物を注いであげる位の配慮は必要かもしれませんが…。ただまぁ、この程度のことなら、別に本人が短時間、手を股間から離して自分で注いでもいいのでしょうが、さっき言ったように、とりわけ「処女」ならば、そんな些細なことでも恥ずかしい場合もあるでしょう…。

 また、ここでは、特に「スカート姫」ロールの割り振られる人物を、毎日ころころ変更したりせず、特定のメンバーの上に固定する場合を前提に述べていますが、基本的には、ある周期で「スカート姫」ロールが他の成員の上に移動する場合にも理屈は同じです。

 まぁ要は、どういう組織体においても、方針として「スカート姫」ポジションを設置する場合は、その「スカート姫」ロールを割り振られるメンバーは、そのことは予め知らされて説明されなくてはならないし、異動・退職その他の方法で、「スカート姫」ロールを返上する権利は、常に留保されねばならない、というのは、原則でしょう。異動では人事的な障壁が大きすぎる場合は、職場の陣容は変更せずに、単に「スカート姫」のロールを他のメンバーへと委譲する為の発議権を、「スカート姫」本人に持たせておく制度が必要な場合もあるでしょう。

 そんなところです。